ENo.538 首無しの馬

近年、セルフォリーフには奇怪な現象が多発するという。
これを危惧した住民達は、世界医師連盟にも援助と指導を求めた。
技術支援と学術指導、そして金銭的援助の契約手続きのため、
連盟からはあらゆる分野の医師達が派遣されてきた。

男もまたそれらの医者のうちの一人だった。
母親の腹から子供をとりあげる事を生業としていた。

何故こんな場所に妊婦が、と男は一瞬思ったが、産科医として自分が呼ばれるくらいなのだから、
ここに妊婦がいたとしても別段おかしい事ではないとすぐに思い直した。

声を掛けたきり一向に口を開かぬままの男に、女の一人が眉をひそめる。
金髪のショートカットがよく似合う、神経質そうな顔立ちの女だった。
ひょろりと縦に伸びた長身の身体が、もう一人の女を隠すように立ちはだかるが、
臨月と言わんばかりの膨れた腹は、いとも容易くその遮りから姿を表すのだった。

「あの、何か」

ああいや、と男は慌てて顔の高さまで己の両手を上げ、己に害意のない事を伝える。

男「失礼だが、そこの後ろの―」

「…妹が、何か」

女の言葉は明らかに悪意があるかのように冷ややかだった。
姉妹だったのか、と思考したが、顔には出さずすぐに言葉を続ける。

男「あんた、お姉さんなんだろう？妹さん、こんな所にいて大丈夫なのか？見た所、臨月を迎えているようだが」

姉「ご心配なく、貴方に…男性の方より、私の方が妹の事をよく分かっておりますので」

男「そういう事を言うもんじゃあない、聞きなさい。私はこれでも産科医をしているんだがね、見た所、その様子じゃあ、妹さんはいつ破水してもおかしくないぞ」

姉「産科医…」

女は目を見開く

男「あんた、分かるかい？こんな所で破水でも起きてみなさい、感染症の危険性だって」

姉「それはどうも！ご忠告ありがとう！」

女の顔色は見る間に青ざめていった。そりゃあそうだろうと男も心の中で頷く。
妹を隠すようにしながら、急いでその場から立ち去ろうとする女を見て、男は慌てて声を掛けた。

男「おいおい、ちょっとあんた」

姉「ご忠告ありがとうございます、私達はすぐに宿へ帰りますので！」

男「いやね、何だか私はあんた達が心配なんだが。妹さんの状態も気になるし」

姉「お気遣いありがとう、でも私達は大丈夫、専属の医師もおりますので！」

女がくるりと踵を返した際、後ろにいた妊婦と目が合う。
薄い衣をまとった小柄の女で、肌の色は病的に白く、厚ぼったい唇が印象的な無表情の女だった。
その何とも言えない奇妙な雰囲気に男は何も言えなくなり、ただただ立ちつくすしかなかった。

* * *

翌日、男は大きな荷物を抱えていた。
男は人手不足という事で産科医としてここへ呼ばれてきたのだが、それはこの先にあるいくつもの街々を巡回しながら技術を提供するというものだった。
街から街へ移動する際には、てっきり送迎の車が用意されるものかと思っていたのだが、これが間違いだった。
迎えはないらしい。それで男は仕方なく徒歩でその集落を目指さなければならなかった。
その為に急遽必要となった野宿用の道具を市場で買い、荷物をまとめる為に宿へ戻っている、その途中の事だった。

市場を行き交う人込みを縫って歩く中、ふと視界の隅に一つの人影を捕らえる。
何ともなしにその影を目で追い、男は思わず目を見開いた。
―昨日の妊婦だった。

すぐさま「いやいや」と半笑いに否定し、男は再び正面へと向き直る。
あれは、人違いだ。とてもよく似た赤の他人だ。
男は己にそう言い聞かせながら、改めて宿の方へと一歩踏み出した。

妊婦は妊婦ではなかった。
膨れた腹は跡形もなく消えていた。

男「…身体の調子はどうかな？」

声を掛けられた女は静かに振り向く。眉ひとつ動かぬその顔だけは、昨日と寸分も違わなかった。

どうしても無視できなかった。
宿へと向けられた筈の足は、数刻も経たぬ内から女の方へと向け直された。

女「特に何もないわ」

女が口を開く。
ふっくらとした唇が震えた。

男「腹の子は？無事に生まれたのかね？」

女「ええ、昨日の夜、無事に生まれたわ」

男「それは良かった」

女の物言いは淡々としていたが、姉とは違い、冷たいとは感じなかった。
静かな声はしっとりと艶やかだったが、声自体はやや細めで、少女のもののようにも思える。

男「子供は？宿に？君は何を？言いたくはないが、母親として感心はできないな」

女「もうここにはいないわ」

男は奇妙な顔をする。女の言う事が理解できなかった。

男「…お姉さんは？」

女「姉はいないわ」

男「ではどこに？」

女「私に姉はいないわ」

更に男の顔は歪む。
女に対して何とも言えない不信感が募る。

男「もう一度聞くが、お腹の子は昨日無事に産まれたのだね？」

女「ええ、昨日、無事に生まれたわ」

男「…昨日、君と一緒にいた金髪の女性はどこにいる？」

女「さあ」

男「さあ？」

女「家に帰ると言っていたわ」

男「子供も一緒に？」

女「ええ、子供も一緒に」

男「彼女の家はどこに？」

女「さあ」

男「知らないのか？」

女「知らないわ」

男「彼女の名前は？」

女「さあ」

男「それも知らないのか？本当に？名前も？」

女「知らないわ、言われなかったもの」

そこで女に声が掛る。
見ると、7、80くらいのくたびれた老夫婦がにこにこと笑みを浮かべて傍に立っており、「あのう」と女に声を掛けている所だった。

会話が途切れた事で、男は正直助かったとさえ思った。
あの時点で既に男は絶句し、全く言葉が続かなかったものだから。
短く別れの挨拶をかわし、逃げるようにしてその場を去った。
ここまでの間にも、女の顔は僅かも変わる事はなかった。

* * *

さらに翌日、旅の準備を終えた男は次の街へと向かって出発した。
宿を出てそう経たない内に、男は見覚えのある二つの人影に遭遇した。
昨日、女の所で入れ違いとなった老夫婦だった。
老夫婦達も男に気がついたようで、軽く会釈をして見せる。

老婆「あら、貴方は昨日の。ごめんなさいねぇ、昨日はお話の邪魔をしてしまったでしょう？」

男「いいえご婦人、どうかそのような事はお気になさらず」

老人「すまないね、昨日は私達も嬉しさのあまりに、よく周りが見えていなくて」

男「ご主人、本当にお二人が気に病まれる必要はないのです。あの時、私の話は丁度終わった所でした。それよりもあなた方こそ彼女に用があったのでしょう？」

誰からともなく、三人は一歩、また一歩と同じ方向へと歩き出した。
老夫婦は昨日と同じように、嬉しそうににこにこと笑みを浮かべている。

老婆「そうなの、間に合って本当に良かったわ。国に帰る時間は流石にないけれど、それでも十分よ」

男「間に合う？とは？」

老人「結婚式ですよ　明日は末の孫夫婦の結婚式だったのです」

「だった」と過去形である事に疑問を抱いたが、これには当たり障りのない笑顔で返しておいた。
あの妊婦（すでに腹は引っ込んでいるのだが）がこの老夫婦の孫か、あるいはその花嫁か。
いずれにせよ、明日にでも彼女は婚約者と結婚するのだろう。

男「結婚式ですか、それはめでたい！」

老婆「ええ本当に。正直、私達、もう見つからないと半分諦めておりましたから」

老人「そう、それに孫夫婦を産んで下さる方が本当に存在するのかも」

男「―――」

男「…産む、ですか？」

老婆「ええそうよ、産んで下さるの」

男「失礼ですが……誰を？」

老人「ですから、孫夫婦を、です」

そこで会話が途切れる。
三人の歩調も減速していき、ついには完全に止まってしまった。
一拍おいて、老人が少し驚いたように口を開く。

老人「もしかして、ご存じないのですか？」

男「…ええと、…何を？」

「あの人よ」と、老婆も身を乗り出すように答えた。

老婆「彼女は死者を産んでくれるのよ。私達、それで彼女に会いに来たの」

「どうか二人を産んで下さいって」と、老婆は胸の前で小さく拳を握りしめる。
老婆の表情は切実で、真剣そのものだった。
それでどうしても男には、目の前の二人が冗談を言っているようには見えなかった。
では狂っているのか。ありもしないオカルト話に縋ってしまう程に。

男「…失礼、お孫さん夫婦は、その…亡くなられて？」

老人「はい。半年前に事故で。式場を選びに行ったその帰りに…二人とも即死だったと。」

男「はあ…」

老人「ですから、せめて形だけでも、ささやかな式を挙げさせてやりたいのです。」

何とも言えず、男は居心地が悪そうに口を開いた。

男「しかしですね、ご主人、常識から考えて死人が…」

そこまで言った所で、男の顔がみるみる歪む。
言葉を失い、ただただ目の前に移る光景を凝視した。

ふと視線を上げた所へ、信じられない物が目に飛び込んで来たのだ。
少し離れた先にいる女は紛れもなく、昨日、一昨日と出会ったあの女だった。
昨日と変わらぬあの無表情でじっとこちらを見ていた。
ただ昨日と大きく違っていたのは、その腹が異常なまでに膨れ上がっていた事だった。