ENo.724 アイヴォリー＝ウィンド

　危惧していた端からこれだ。もしかすると、昨日あんなことを思ったのはそれをどこかで認識していたからかも知れない。アイヴォリーはそんなことを考え、小さく溜め息をついた。指はまだ痛む。ちょうど街に戻るタイミングだったから、すぐに治療を施すこともでき傷こそ残っていないものの、その失敗によって残ったものは想像以上に深手だった。

「ヤレヤレ……アンマリアブねェコトばっかしてッと、メイリーにナニ言われッかわかんねェしなァ……。」

　ゲンさん、はぐれた玄玖郎のことを心配しつつ、メイリーと二人で戦闘に臨んだ。無論、そこに無理がなかったといえば嘘になる。本来のアイヴォリーは、軽い攻撃を積み重ねて相手の戦力を削ぐのを得意としている。元々、盗賊として必要とされる能力は力ではなく、器用さなのだから仕方がない。メイリーの魔術も、以前“島”で強力な威力を誇っていたときのそれには届かない。そうなれば、誰かがどこかで無理をして、敵を倒すための一撃の重さをひねり出さなければならなかった。そして、メイリーの魔術が現在の状況では限界であるのだから、アイヴォリーがどうにかする他なかったのだ。
　暗殺術は、そもそも自分の安全を念頭に置いていない。敵をいかに効率よく殺すのか、に特化したその戦い方では、攻撃力を維持するために自分の身を守ることはあっても、自分が怪我をしないために身を守るような方法は用意されていないのだ。

「まァ、無難にヤらねェと仕方ねェか……。」

　この場合、彼が言うのは今までのように博打を打つのではなく、もっと堅実に、効果を下げてでも身の危険が少ないような攻撃を積み重ねる、ということだ。幸い、ゲンさんは何事もなくギャングを退けて帰ってきた。これでまた三人で探索できる。であれば、そこまで自分が無理をする必要もないだろう。
　もう一つの頼みどころとして、装備が更新された。それも、ダガーと革鎧、両方がだ。ダガーはいつも仕事を任せているアスカロンが鍛えたものだ。彼女がアイヴォリーの使う得物を鍛えるのももう何回目になるだろうか。さすがに勝手知ったる仲、今回も使いやすそうに見えるそれは、これまでのアイヴォリーの注文した面倒な仕様を正確に守って仕上げられていた。防具に関しては、どちらかといえば贅沢な注文だったといえる。何せこの前アイヴォリーは防具を更新したばかりなのだ。そこからさらに、自分が普段身に着けている革製の胸鎧を素地にして身の軽くなる魔力付与を施した石で強化してもらった。そこまで打たれ強い訳ではないアイヴォリーにとっては、その効果は生命線だといえる。どれだけ相手の攻撃を躱せるかが、アイヴォリーがどれだけ戦闘を継続できるかに直結するのだから。

「ゲンさんも戻ってきたし、まァどうにかナンだろ。」

　踏ん切りをつけるように、自分自身にそう言い聞かせてアイヴォリーは立ち上がった。いつまでも終わってしまったことを思い悩んでも仕方がない。自分の部屋の扉を開けると、階下に降りていくために階段に足をかけた。下ではいつも通り、仲間が待っているだろう。また、一から出直しだ。

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「よっこらしょ……これでいいかな？」

　自分の主人から送られたデータを反映し終わって、彼は書斎の中を見回した。いつも通り、あまり片付いているとは言えない本棚。下に積まれている、蔵書の中では比較的価値の低い書類の束が崩れそうになっているのに気が付いて、彼はそっとそれのバランスを立て直す。
　客人用の大きなソファには、ここのところ誰も座っていない。それはそうだろう、天幕の魔力供給回路を使って書斎を維持していたときならばともかく、今のこの部屋は、完全に主の力によって成り立っている。正確には、彼の中に埋没した“猿の手”の魔力で。それ故に、今はこの書斎の主が招いた客以外には一切出入りが存在しないのだ。そして、その彼は、今のところ下層世界のひとつに追いやられた“友人”と遊ぶのにご執心のようで、誰か不幸な犠牲者を書斎に直接呼び出して問答するようなこともしていない。お陰で、次元の狭間に存在するこの書斎は、ここのところかなり静かだった。
　その椅子に合わせられた調度の小さなテーブルの上には、冷めた紅茶のポットとカップ。彼は紅茶を飲みたがる割には、実際に飲んでいるところを目にすることは非常に少ない。今回も、出したときには爽やかな香りを辺りに漂わせていたそれは、今では冷め切ってむしろ部屋の一部と化してしまっているようだった。
　大きな書き物机と小さな明り取りの窓。そして、時代がかった回転椅子に、主はいつものようにして深く座っていた。
　ソファの横に、アイコンを投影して自らの姿を形作る。特に理由はない。普段与えられている仕事に限らず、全ての用件は実体化しなくても処理できる。この書斎自体が情報の集積物、つまりはデータで構成されたものなのだから当然だ。そこに存在する“自分”は、書斎の一部でありまた書斎は自分の一部だった。
　小さな光の点から現れた光球が大きくなり、人の胸ほどの位置で滞空する。ゆっくりと羽が舞い散り、白と黒の翼を備えた光球は、瞬時に人の姿へと形を変えた。

「あまり荒らさないでくれよ。」

「いつも片づけてるのは僕でしょ？」

　主は彼に背中を向けたまま、机に向かっていてこちらを見る様子さえない。一方的にかけられたその言葉さえ非常にそっけないものだった。
　そんな理不尽な主の言葉を意に介した様子もなく、軽口をたたく調子で勝手にソファへと腰かけた少年は、傍らの宙から様々なものを取り出した。何もない虚空から、まるで手品のように次から次へと、雑多なものが取り出される。あっという間に、ソファとその前の机は取り出された品物で埋め尽くされてしまった。
　最後に呼び出した、空色に塗られた古風な革のトランクを開き、彼は周りのものを見る。その様子は、姿だけを見ていれば、古道具屋の窓越しに、がらくたに目を輝かせて覗き込む少年そのものだった。淡いランプの光を照り返し、きらきらと輝く細い金髪。細くすっきりと通った鼻梁と、バランスのとれた大きな目。青と緑、そのどちらにも見える瞳は中世的な彼の雰囲気をより際立たせている。“純真”、“繊細”。もしくは“可憐”。絵画に描かれた天使のような雰囲気を身にまとった少年がそこにはいた。

「やれやれ……あまり荒らすなと言っただろう。」

　大きなため息とともに椅子がくるりと回って、部屋の主が呆れたように呟いた。いつも通りの長く伸び、乱れた黒い髪の向こうから赤い目が机周りの惨状を見下ろしている。こうなることは予想していたのか、もう一度溜め息をつくと口元を微かに歪ませて、彼はさらに言葉を続けた。

「第一本当に旅に出る訳でなし、そもそも君にはこうした準備は必要ないだろう……何だ、こりゃ。」

　言葉を続けながら、用途が一切不明のがらくたを部屋の中に並べている部屋の主は、机の上に並べられた品物の中からひとつを引っ張り出して目の前に掲げてみせた。いつの時代のものかも分からない、しかもどんな力がかかったのか歪んで捩れてしまった硬貨だった。

「いいでしょ、こういうのは気分なんだからさ。」

　少年は主の手から硬貨を取り返すと、荷物の選別作業に戻る。傍らの山の中から古風な彫刻の入った銃を取り出すと、それを無造作に鞄に放り込む。大の大人でも撃てるかどうか怪しげなほど巨大なそれは、肉厚の関係なのか五つしか弾を込める弾室が存在しない。対応した弾丸なのか、少年は虚空から長大な弾を取り出すと、そのまま一掴みじゃらじゃらと鞄の中に流し込んだ。

「良いかい、余り派手に立ち回って“管理者”や“記録者”に目を付けられるんじゃないよ。彼らに絡まれると面倒なんだから。
　ああ、後仲間を気晴らしに発狂させたりするのも駄目だからな。」

　まるで親が子供に、旅行前に気を付けることを復唱させるような様子で、赤い法衣に身を包んだ部屋の主が言う。うんざりした調子で少年は彼に目をやった。

「分かってるってば。僕を何だと思ってるのさ。」

「君だから心配なんだろう……。」

　やれやれ、ともう一度溜め息をついて、部屋の主は諦めたのか再び椅子を机に向けてしまった。少年は荷物の選別に飽きたのか、残ったものをすべてざらざらと鞄に流し込む。明らかに鞄に入る量を超えているそれらの品物は、それでもなぜか鞄に納まった。勢いよく蓋を閉め、少年が立ち上がって鞄を持ち上げる。

「シェル……頼むから“気を付けて”くれよ……？」

　部屋の主の嘆息を背に、電子妖精の少年は上機嫌で部屋を飛び出した。楽しい遊びが待っているのだ。

──十七日目～“スタートライン”──